大草原、辺り一面に広がる緑。
その先にあるいくつもの丘といくつもの山を越えていく。
歩く、二人、簡素な旅装束に身を包む二人の男女。
朝は涼しげなそよ風を受けながら道無き草道を踏みならす。
昼は温かい太陽に照らされながら緑の丘を越えていく。
夜は二人毛布により添い山の寒さに耐えながら朝を待つ。
二人はどこまで歩くだろうか。
どんな困難が待ち受けているのだろうか。
そして、見果てぬ先にいったい何があるのだろうか・・・
わからない・・・その先がわからない・・・
私にはそれが、とても怖かった・・・
私の名前は、白河姫音(しらかわ ひめね)。
私はある『魔法』が使える。
それは人の心が読める魔法。
でもそんなもの欲しくなかった。
お父さんに知らない男の汚らわしい娘だと言われた。
お母さんに本当は欲しくなかった子だと言われた・・・
お父さんとお母さんは、いつもケンカばかりしている。
でも私の前では、決してケンカしているところを見せない。
二人とも、私には酷い事を言わない。
だから本当はそんな酷い事を言われていない。
でも私は聞こえてしまう。
私が持っている『同調』という魔法のせいで・・・
「・・・ええと、『同調』っていうのはね、本当はお互いの気持ちがわかる魔法なんだよ」
「自分の心の『声』を伝えて、相手の心の『声』を受け取る。テレパシーみたいなものかな。その中でもキミは特別なケースだね。相手の『声』を全部受け取る事が出来る。でも自分の『声』は相手に伝えられない・・・」
ある日、偶然会った女の人から聞いた話だ。
金髪の長い髪を持ち、容姿だけ見ると私と同じぐらいの年だと思う。
でも、私の両親よりも随分と大人びた雰囲気がした。
「でもね、本当にキミの事を好きで、キミもその人の事が好きだったら。キミの『声』をちゃんと受け取ってくれるはずだよ、どうかそれを忘れないでね」
数日後、私の両親が交通事故に遭って死んだ話を、知らない人から聞かされた。
結局最後まで、あの人たちから私を愛してるという『声』は一度も聞けなかった・・・
気づいたら、両親がいない子供が預けられる施設に私はいた。
『姫音ちゃんって可愛いよな、一度でもいいからチュ~とかしてみてぇ』
『姫音のおっぱいでか過ぎだろ、いひひっ、今度無理やり揉んでやろうかな~』
『姫音ってさ、男にちやほやされて調子に乗ってんじゃね? 見ててイラつくんだけど』
施設の男の子たちから、私の顔や身体のイヤらしい話を聞かされた。
施設の女の子たちから、私をみんなで仲間外れにする話を聞かされた。
聞きたくないのに、私の『同調』が全部を受け取ってしまう・・・
『・・・もう、嫌。何でみんなそんな目で私を見るの・・・嫌だ、嫌だよ・・・
誰か助けて! 私を苛めないで! 私を無視しないで! 私を仲間外れにしないで!
私をイヤらしい目で見ないで! ねえ、お願いだから、誰か私を助けてよぉおおっ!!』
私が『叫んで』も、誰も聞いてくれない、助けてくれない、こんなに『叫んで』るのに・・・!
誰も私を好きじゃない、側にいてくれない、愛してくれない、みんな私の事が嫌いなんだ。
私はどこに行けばいいの、私が居ていい場所は、私の居場所はどこなの・・・
私は自分が嫌いになっていった、私の顔も、身体も、そしてこの『声』も、全部嫌い。
でもそんな私が一番嫌いだった。
だから、後で引き取られた家でも、私は本当に嫌な子供だった。
私を引き取ってくれた「音羽」の家、父母と息子が一人、とても裕福な家庭だった。
その家の両親はよく海外の出張で長い間、家を開ける事が多く、私は『兄』と二人で過ごす事が多かった。
「これから二人だけで暮らす事が多くなると思うけど、よろしくね、姫音」
兄は両親に大事に育てられたせいか、人がよく性格も大人しかった。
兄は私に気を使って優しくしてくれるが、私は全て無視した。
両親に愛されて育った優しい『兄』のことが嫌いだった。
ある日、私は兄と中学の女友達を連れて、この島にあるデパートに出かけた。
「でさ~、部活の先輩がさ、私の服、チョ~子供っぽいっていうの、酷くない?」
「あんたの髪型が子供っぽいんじゃない? 今度私が行きつけの美容院紹介してあげる」
「でも折角だから、服だって見ようよ~ 私も新しいの、そろそろ欲しいんだよね~」
「・・・・・・・・・」
兄はずっと黙っていた。
内気な上、会話の引き出しが少なすぎる兄は、私の友達と話せるはずがなく、一人黙って私たちの後を付いてくるだけだった、当然、私の計算だ。
それに兄はもともと大人しい性格のせいかクラスの友達も少ない。
私と数人の友達で兄の「噂」を広げると、兄に味方する人はいないため、瞬く間に兄は女子から嫌われ、次第に同性の友人もいなくなった。
そう、兄はクラスで孤立している、今の友人の数はゼロだろう。
「ねえ、私たちだけでこの店に入りたいから、店の前で待っててもらえる?」
突然、私は兄に冷たい口調で言い放った。
そこは女性の下着が売られているランジェリーショップ、男性には近寄り難い店だ。
兄は気弱そうに返事をすると、私たちは店に入り、数分後に兄の死角をついて店を出た。
「ふんっ、バカな人。たっぷり恥でもかけばいいわ」
私たちは離れた喫茶店に入り、兄を騙した事を肴に数時間話し込んだ。
そして私たちは解散し、兄が気になった私はランジェリーショップに向かった。
兄はやっぱり、そこにいた。
他の女性客に変な目で見られたり、店員から話しかけられても「あはは・・・」と
困ったような愛想笑いを浮かべるだけだった。
そう、兄は人が良すぎる上に、非常にどんくさいのだ。
私がこんな幼稚な手で、兄を辱めれると踏んだのもこのためである。
でも今回は、さすがの兄も私に怒ると思った。
どんなに言葉や表情で隠しても、私には心の『声』が聞こえる。
あのバカ正直で、お人よしの兄でも、文句の一つは出るだろう。
兄も男だ。
どうせ、義妹の私を、イヤらしい目で見るに決まってる。
いつか、私を無理やり襲ったりすることもあるかもね・・・
「何、ずっと女の下着売り場の前で突っ立てるのよ、バッカじゃないの!?」
「あはは・・・ごめんね、迷惑かけちゃったね・・・本当にごめん・・・」
「一応、私はあんたの義理の妹ってことになってるの。あんまり変なことして、私にまで恥かかせないで欲しいんだけど」
私は兄に向って吐きだした。
すると兄は情けなく、みじめに、気弱そうに、私にまた謝った。
「何、謝まってんの?」「あんたの愛想笑い、ムカつくんだけど」とか
言ってやろうと思ったけど言えなかった。
だって本当に兄はそう思っていたから・・・
本当のバカは兄じゃなくて私だった。
でも、そこから私のバカな子はもう少し続くのだった。
両親がいない時、二人でするよう言われた家事を全部兄に押し付けた。
兄が作るご飯をまずいと言って食べなかった。
二人で使う生活費を勝手に買い食いや高い服に使って兄を困らせた。
それでも兄は、困った時は「あはは・・・」と苦しそうに愛想笑いするだけで、私の事を決して悪く言わなかった、当然、両親にも告げ口した事はない。
私の無駄遣いがバレたときも、自分が使ったと私をかばってくれた事さえあった。
兄から嫌な『声』は聞こえてこない、それぐらい最初からわかってる。
だって私は『同調』があるから、ううん、そんなものなくたってわかってたんだ。
兄はどうしようもなくお人よしで、私の事を大事にしてくれてるって・・・
でも私は認めなかった、怖くて、みじめで、情けなくて、あれだけ優しくしてくれた兄に、つらく当たった罪悪感に耐えられなかったから・・・
私はどうしようもなく、自分が嫌になった。
そしてある日、事件が起きた。
通帳に記載された3桁の僅かな預金。
「・・・嘘っ!? お金ってもうこんなに少なかったの!?」
気が付いた時には、振り込まれた生活費が尽きてしまったのである。
当然、原因は私にある。私の心無い浪費せいだ。
裕福な家だが、生活費として渡されるお金はそう多くはない。
それは二人で家計をやりくりさせるため、そして、いつか日か来る独り立ちのためである、
でもそんな事、当時の私に知る由もなかった。
お金がなかったため、私は今日の夜からご飯が食べられなくなった。
生活費は共通の口座にあるため、兄の食費も多分無いだろう。
そして夜、私は空腹を抱えたまま、自分の部屋のベッドで大の字になっていた。
「お腹すいたな・・・あいつも今頃、お腹すいてるのかな・・・」
トン、トン、トンっ・・・
「姫音、今ちょっといいかな」
兄のノックと声を聞いた。
あいつ、ご飯食べられなくなった事、私に文句言いに来たのかな。
そりゃそうか、お金無くなったの私のせいだし・・・
「開いてるから、入れば・・・」
「・・・うん、お邪魔するね。姫音さ、お腹空いてるよね。こんなのしか作れなかったけど、食べる?」
どうやら兄は私にご飯を作ってくれたらしい。
見ると、ふりかけご飯と形が崩れたへたくそなオムレツだった。
兄の不器用さは料理についても例外ではなく、兄の作る食事はいつも、生彩に欠け、レパートリーも少なく、味も単調、お世辞でも美味しいとは言えなかった。
「ふんっ、あんた、まだお金持ってたんじゃない! 一人だけで使う気だったの!? それに、このご飯と下手くそなオムレツ、全然美味しくないじゃない! だからあんたの作ったご飯は、食べたくないっていつも言ってるのよっ!」
すごく空腹だった私は兄の作った食事を乱暴に奪い、そして食べながら悪態をついた。
「あはは・・・ごめんね、美味しくなくて・・・」
と、兄は弱々しく微笑みながら、私の食事を見ていた。
「何、ニヤニヤ見てんのよ! 気持ち悪い! 出て行って!!」
・・・だって今の私、すごく情けなくて、恥ずかしいから・・・
その日から、兄は朝と晩は私にご飯を作って、部屋まで持ってきてくれた。
次の日もふりかけご飯とオムレツ、次の日はご飯と缶詰が出てきた。
しばらくしてアンパン、次は食パンだけ、美味しくないビスケットだけ・・・
「あはは・・・今日はこんなものしかなかったんだ、ごめんね、姫音」
「こんなの、いらない・・・。だって美味しくないよ・・・」
私は、せっかく兄が持ってきてくれた食事を断る。
ぱさぱさのまずいビスケットは、昼食を抜き、まともな食事を取っていない私にとって、見ているだけで唾液が出てくるごちそうだった、でも・・・
「どうして私なんかにご飯持ってくるのよっ! あんたが食べれば良いじゃない!」
「あはは・・・僕ってあまり食べないほうだから」
「嘘っ!! 嘘つかないでよっ!! 嘘ついたって、私には全部わかるんだからっ!!」
「私、あんたに酷い事した! 怒らないの!? 仕返ししないの!? 何か言ってみなさいよっ!! ほら、どうしたの? あんた、私に同情でもしてるわけ!? お父さんやお母さんがいないから、私に優しくしてくれてるつもりなのっ!?」
私は、もう何もかもわからないぐらい感情を爆発させていた。
兄はじっと私を見ていたが、少しずつ口を開いた。
「ううん・・・違う・・・ただ姫音がこの家に来て、僕がお兄ちゃんになるって言われた時、僕が姫音の父さんや母さんの代わりになって、姫音をずっと守っていこうって思ったんだ。いつでも姫音の味方になって、いつか姫音に頼ってもらえるようになれたらいいなって・・・」
兄は弱々しく微笑んだ。
その顔は青白く、頬もやせこけているようで、まるで病人みたい。
身体も細々としていて、最初に会った時よりもずっと痩せていた。
「・・・・・・あんた、すごく痩せてる。顔色だって悪いし、やつれてる。すごく苦しそう! どうしてこんなになるまで、私にご飯をくれるのっ!? 私を守ろうとするのっ!? もっと自分を大事にしなさいよっ!! 私じゃなくてっ!!」
私は兄を怒鳴りつけると、また兄はしばらく私の顔を見つめていたが、何か遠い物を見るような目で、穏やかに切り出した・・・
「僕さ・・・勉強できなくて、運動できないし、カッコも良くなくて、何の取り柄も無いんだ。だからさ、きっと僕は・・・将来すごい人には多分なれないと思う」
「だけど姫音が来てくれた時、すごく嬉しかった。僕、最初に姫音に会った時、姫音の事、すごく可愛いと思ったんだ。こんな可愛い子とお話したり、デート何かできたら最高だろうなって」
「でも僕みたいなダサくて、要領も悪くて、女の子と話したりできない人が、最初から姫音みたいな可愛い子と釣り合うはずないんだ。その代わりさ・・・兄として、家族の一人として、姫音を一生守っていこうって思ったんだ」
「僕は、大勢の人を幸せにする事はできないけど、目の前の姫音を一生守り切って、その幸せを見届けていくことぐらいは、してみたいと思ったんだ」
再び兄は弱々しく微笑む。
だが言葉だけではない兄の強い意志が、『同調』能力が無くてもはっきりと伝わってくる。
この人は今の私だけを見ていない。
これから先の私を見て、ずっと守ってくれようとしてたんだ・・・
ああ・・・この人はバカだ・・・どうしてこんな私を守ってくれるんだろう。
本当にどうしようもないぐらいのバカ・・・!
私・・・この人に・・・何て事をしたんだろう・・・・・・!!
兄は微笑んでいたが、突然ぐぅと弱々しいお腹の音を鳴かせた。
「え、あっ、あはは・・・ごめんね。それ食べてもらっても構わないからさ」
兄は私の部屋を出る・・・・・・ダメ! 絶対にダメっ!!
気づいた私は、とっさに兄の手を掴んだ・・・!
「待って・・・! 待ってよっ!! お願い! 行かないでっ!!」
「・・・ビスケット・・・食べてよっ!! あんた、ずっと何も食べてないでしょ!? そんなの、死んじゃうじゃないっ! やだっ! そんなの、やだぁああああああっ!!」
私は初めて人前で、泣いてしまった・・・
みっともなく大声をあげて兄に泣きついた。
私と同じ年の兄は、男子なのに女の子にみたいに華奢で細くなっていた。
・・・・・・・・・
ぱり・・・ぽり・・・パリ・・・ぽり・・・
二人で食べる乾いたビスケットの音が私の部屋に響く。
月明かりが差し込むだけの薄暗い部屋。
私は兄と背中合わせだった。
「今度、お金振り込まれたらさ、あんたにご飯作るね」
「うん・・・ありがとう、楽しみにしてるよ」
「嘘じゃないからね、本当に作るんだからね!」
「うん、わかってる」
「掃除とか洗濯とかも、ちゃんとするから」
「うん、ありがとう・・・すごく助かるな」
「お金も・・・考えて使う・・・こんなこと、もう二度としない」
「・・・うん、わかった」
「さっきから、うんうん、ばっかり・・・」
「ん?・・・あはは・・・ごめんね・・・」
「別に怒ってるわけじゃないから・・・」
「うん、わかってるよ」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・姫音?」
不器用で、どん臭くて、お人良しの兄。
いつも私を大事にしてくれる。
支えてくれる、守ってくれる。
「あのさ・・・あんたに変な事聞いていい?」
「変な事? 何?」
誰にも愛されず、荒んだ私を、心の底から受け入れてくれる。
私の大切なお兄ちゃん。
「今さ、私の声が聞こえなかった?」
「え?・・・ごめん、何か言ってたの? 聞いてなかった・・・」
女の人が男の人を、顔やお金や名声で好きになるんじゃない。
この人とずっと一緒にやっていきたいという気持ち。
「いい。今は、まだいいから」
「うん・・・わかった」
だから私は今、あなたに言います。
『お兄ちゃん、今までこんな私を守ってきてくれて、ありがとう。
もしも許されるなら、あなたとずっと一緒に歩ける人でありたいと思います』
生活費の不足は両親に連絡すれば、追加で出してもらえる事になっていた、
でも私たちはそれをしなかった。
私はこの家の両親に意地を張るためだけに、
兄は自分ひとりだけで義妹の私を守るために、
同じ年の二人にはこれだけの大き過ぎる差があった。
その夜、私は兄と一緒の毛布に包まれて眠った。
兄は恥ずかしがっていたが、私が強引に引き込んだ。
別に兄にならもう何をされても良かった、でも何もしてこない、優しいお兄ちゃんだった。
私は毛布の中で兄に抱きつく、温かい、何故かとても落ち着く。
月明かりだけが入ってくる私の部屋、私と兄は毛布の中で静かに抱き合って眠った。
―――コト、コト、コト・・・
かすかに寒さが身にしみる朝、味噌汁のお湯が沸き上る音がキッチンに響く。
キッチンには一人の可憐な女性が朝食の支度をしていた。
そこへ階段から、一人の男性が少し眠そうな顔をして降りてくる。
「あっ、おはようございます。朝ごはん、もうすぐできますよ」
「うん、おはよう。いつもありがとう。ちょっと顔を洗ってくるね」
5分後、リビングのテーブル上に温かで彩り豊かな朝食が並ぶ。
二人が手を合わせ同時に「いただきます」を言う。
「そう言えば、今日から帰りが遅くなるんでしたよね」
「うん、会社で小さいけどあるプロジェクトのリーダーを任されることになったんだ。だからいつ帰れるかわからない、多分すごく遅くなると思う。晩御飯はいつも一緒に食べてるけど、今日から食べられないかも・・・」
「いえいえ、いくら遅くなっても、帰ってくるまでいつまでも待ってますよ。だから一緒に御飯を食べましょう。きっと一人で食べるより、二人で食べたほうが美味しいに決まってますからね」
家を出るまでのわずかな朝の時間。
だが二人の間には穏やかな時間が流れる。
いつも二人で食事を囲み、会話し、温かく微笑み合う、そんな優しい時間。
『こういうの・・・いいな』
どこからだろう・・・、リビングの空間の外から声が響く。
『うん、すごくいいと思う』
その少女の声に応えるように少年は頷く。
二人の男女が温かな朝食を囲う光景。
それは少年と少女が思い描く理想。
それは夢の中でしか存在できない幻想。
『いつか、いつの日か、こういう毎日を過ごせるように・・・なれたらいいよね・・・』
『うん、だったらさ。やってみようか・・・』
『え・・・いいの・・・? 私と何かで・・・』
『うん、姫音とやってみたいんだ。僕と姫音でやろうよ。約束だ』
『・・・うん約束。ありがとう、お兄ちゃん。・・・すごく嬉しい。明日、楽しみだね』
私とお兄ちゃんはゆっくり微笑み合う。
・・・明日が欲しい、明日から微笑み合っていけるように・・・
ここからもう一度、お兄ちゃんと歩き始める事ができるように。
そこで私の意識は闇に沈んだ。
次に見たのは懐かしい緑の風景。
緑の絨毯、辺り一面に大草原が広がる。
見上げると緑の丘、その先にいくつもそびえる高い山々。
そして草原から二人の男女が並んで歩いていく。
穏やかな風が吹き、晴れた青空の下を歩く二人。
恋人か、それとも夫婦だろうか。
歩く二人の背中は草原の彼方へ向かって少しずつ小さくなる。
そして、緑の水平線に消えていく・・・
私は後ろから、その二人を見ていた。
二人はどんな顔をして歩いているんだろう。
二人が行きつく先はどこなんだろう。
二人はずっと一緒なのだろうか・・・
そんなことを考え、不安に襲われる。
だって怖いから、先が、何があるか、何が待っているか分からないから・・・
一人じゃつらいよ、心細いし、寂しいよ。
・・・だから、隣に・・・誰か・・・、お兄ちゃん・・・
朝、目が覚めると兄はすごい高熱を出した。そして救急車で運ばれていった。
極度の栄養失調のため、免疫力が著しく低下したとのことだ。
私のせいだ、私のせいだ・・・私の人生で最大の汚点だった。
幸い兄の命に別状はなかった。
でも「幸い」なのはこれだけだ。
兄は、記憶喪失になっていた・・・
続く